2016年11月8日火曜日

芋畑の古跡

木版画を一葉(「金毘羅名所図会」所収「芋畑の古跡」)、お届けいたします。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhN6GQKU2iO0s1STCuh4JwgsO_Y8hFjJPzwkrMeFcti-VVp0CxldvliTTHkm9s5U0a3ak6fKPfHG4TStON8UXVXTIAJgOM8ZSEM-4Rn9CadHJ9wEbo8kU7e9sdy0EYEZ34NGMIb3wht_f0/s1600/20161107_-1958536357.JPG

月見よといもの子どもがねいりしを起しに来たか何か苦しき 西行上人
合掌。




金毘羅名所図会 解題
讃岐の地には、「こんぴらさん」として親しまれている「金刀比羅宮」がある。「讃州御国中村切高惣帳(寛永十六年成立)」によれば、古くは、「金毘羅」と称されており、別当を、松尾寺が勤めていた。上記の生駒家奉行文書は、生駒宗家が寄進した金毘羅領、後世、俗に言う御朱印地 三百三十石の内訳を、金毘羅領、二十三石五斗、松尾領、三百六石五斗と記している。(詳細は、合田學著「讃州御国中村切高惣帳」を参照されたい。)
国主、生駒氏の寺社への深い崇敬は、後の国主たちにも受け継がれていった。そして、維新の動乱、明治政府の樹立、廃仏毀釈が起こるまでは、讃岐の寺社には、平穏な日々が続いたようである。本書、「金毘羅参詣名所図会」は、そのような神仏分離以前の讃岐の寺社の姿を伝えてくれる史料として貴重である。
ただ、本書の著者は、執筆に際し、二ヶ月しか当地に滞在しておらず、細部に渡って、自身の見聞を記したとは言えないかもしれない。むしろ、当時存在したであろう文献資料を猟渉、執筆の参照にしたと考えた方が無難であろう。然し、何はともあれ、江戸期の人によって描かれた当時の讃岐の姿は、現代に生きる我々にとっては、随分と珍しいもので、参考になる。
本書は、六巻より構成されており、弘化四年(1847年)の出版である。
著者は、暁鐘成。「西国三十三所名所図会」、「摂津名所図会大成」、「淡路国名所図会」等の著作がある。絵師は、浦川公佐。
テキストの法量は、全六冊共に、縦25.0cm、横17.5cm。表紙には、赤色の和紙が使われている。
合掌。

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