2010年1月4日月曜日

金毘羅参詣名所図会に記された観音寺。

「金毘羅参詣名所図会」について
讃岐の地には、「こんぴらさん」として親しまれている「金刀比羅宮」がある。「讃州御国中村切高惣帳(寛永十六年成立)」によれば、古くは「金毘羅」と称されてお り、別当を松尾寺が勤めていた。上記の生駒家奉行文書は、生駒宗家が寄進した金毘羅領(後世、俗に言う御朱印地)三百三十石の内訳を、金毘羅領二十三石五斗、松尾領三百六石五斗と記している。(詳細は、合田學著「讃州御国中村切高惣帳(上坂氏顕彰会史料出版部刊)」を参照されたい。) 国主、生駒氏の寺社への深い崇敬は、後の国主たちにも受け継がれていった。そし て、維新の動乱、明治政府の樹立、廃仏毀釈が起こるまでは、讃岐の寺社には平穏な日々が続いたようである。本書「金毘羅参詣名所図会」は、そのような神仏分離以前の讃岐の寺社の姿を伝えてくれる史料として貴重である。 ただ、本書の著者は、執筆に際し二ヶ月しか当地に滞在しておらず、細部に渡って自身の見聞を記したとは言えないかもしれない。むしろ、当時存在したであろう文献資料を猟渉、執筆の参照にしたと考えた方が無難であろう。然し、何はともあれ、江戸期の人によって描かれた当時の讃岐の姿は、現代に生きる我々にとっては、随分と珍しいもので参考になる。
本書は、六巻より構成されており、弘化四年(1847年)の出版である。 著者は、暁鐘成。「西国三十三所名所図会」、「摂津名所図会大成」、「淡路国名所図会」等の著作がある。絵師は、浦川公佐。
合掌。




岩国の錦帯橋を髣髴させる絵が記されていますが、これが、江戸時代後期の三架橋です。亦、財田川は染川とも呼ばれていたように、川原に染物を干している情景も描かれています。この画像をダウンロード、そして印刷し、細部を分析してみるのも一興かと存じます。
合掌。




現在、十王堂と称されている地域は、江戸時代、当地の武士団の墓所でした。観音寺城(高丸城)城主、上坂丹波守、上坂勘解由といった人々の墓所が営まれていましたし、足利時代の侍名を記した骨壷なども発掘されています。
明治以降、神仏分離により、嘗ての寺域内に八幡宮の施設が新設された為、その面影は潰えさってしまいました。残念なことです。
合掌。



上掲画像は、旧版「観音寺市誌」に収録されている上坂丹波守の碑を写した写真です。神仏分離後、墓域は、神社の境内地となり、荒廃してしまいました。残念なことです。
合掌。

追記
阿波サイドの史料に拠ると、大西上野守(大西上野介)の墓所も営まれていたそうです。詳細は、以下の拙文をご参照ください。

参考
大西上野守は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。
合掌。



琴弾八幡宮の別当寺として栄えた観音寺、今日とは異なる相貌を見せています。
合掌。




神仏分離以前の琴弾八幡宮は、琴弾山山頂に鎮座、山麓に宮の施設はございませんでした。
合掌。

参考
観音寺、琴弾宮
http://kanonji.blogspot.com/2012/02/blog-post_16.html

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